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    台湾の古い街並みはなぜ残されたのか?迪化街・九份・鹿港の歴史

    台湾には、100年以上前の商家や伝統的な住宅がまとまって残る地域が各地にあります。台北市内の迪化街、山あいに広がる九份、台湾中部の鹿港は、古い街並みを代表する観光地です。いずれも多くの旅行者が訪れますが、観光地として発展する以前は、台湾の商業や産業を支える重要な町でした。

    台湾では戦後の経済成長とともに都市開発が進み、古い商店や住宅が建て替えられてきました。それにもかかわらず、迪化街には清朝末期から日本統治時代の商家が連なり、九份には鉱山で働く人々が暮らした山の集落が、鹿港には清朝時代の港町の面影が残っています。なぜ、これらの町では昔の姿が失われず、今日まで保存されてきたのでしょうか。


    目次

    台湾の古い街並みが残った理由

    台湾で古い街並みが保存されるようになったのは、比較的最近のことです。1980年代になると、経済発展によって失われつつあった伝統的な建築物に関心が集まり、住民や文化関係者による保存活動が各地で始まりました。それ以前にも寺院や歴史的建造物の保護は行われていましたが、商店や住宅が並ぶ街区全体を保存する考え方が広まったのは、この時期です。1982年には文化資産保存法が制定され、古い建築物を守るための制度も整えられました。ただし、台湾の古い町がすべて保存活動によって守られたわけではありません。交通や産業の変化によって商業の中心地が移り、大規模な再開発が行われなかった地域では、昔の住宅や路地がそのまま使われ続けた例もあります。

    台湾の古い町を歩くと、細い道路の両側に商家が連なり、建物の正面には装飾が施され、奥には中庭や住居が設けられていることがあります。限られた道路沿いの土地を商売と生活の両方に利用していたためで、表通りだけを見ても建物の全体像はわかりません。また、古い建築物の中には清朝時代の構造を受け継ぎながら、日本統治時代に外観が改修されたものもあります。建設された年代が違っても、同じ通りにさまざまな様式の建築が並んでいるのは、商売や生活に合わせて少しずつ手を加えてきたためです。


    迪化街|住民が守った商店街

    台北市の迪化街(ディーホアジエ)は、19世紀半ばから商業の中心地として発展した大稲埕(ダーダオチェン)地区にあります。1850年代には商人たちが集まり、淡水河の水運を利用して茶葉や乾物などを取引するようになりました。清朝末期から日本統治時代にかけて商業活動が盛んになり、迪化街には漢方薬店、布地店、乾物店などが軒を連ねます。裕福な商人たちは店舗を兼ねた立派な商家を建て、通りには中国南部の伝統的な建築に加え、ヨーロッパのバロック様式を取り入れた洋風の建物も現れました。現在も迪化街を歩くと、建物の上部に細かな彫刻や曲線的な装飾が施されているのがわかります。こうした外観は、商売で成功した人々が財力を示すために競って建てた商家の特徴でもありました。

    1970年代になると、台北市では交通量の増加に対応するため、迪化街の道路を幅約7.8mから20mに拡張する計画が進められました。しかし、道路の拡張には沿道の古い建築物の取り壊しが伴います。1988年には住民や文化関係者が「我愛迪化街(私は迪化街を愛する)」という保存運動を始め、商店街を守るよう行政に働きかけました。その結果、道路拡張計画は見直され、2000年には大稲埕の歴史的景観を保存する都市計画が施行されます。この計画では、古い商家の所有者が建て替えによって利用できたはずの床面積の一部を、別の土地での建築に利用できる制度が設けられました。建物を保存する所有者の経済的な負担を軽減するための仕組みで、迪化街ではこうした制度も古い商店街の維持を支えてきました。現在は昔から続く漢方薬店や乾物店に加え、伝統的な商家を改装したカフェや雑貨店も増えています。建物の正面だけを保存しているわけではなく、奥行きの長い商家の内部を利用した店舗もあり、昔の建築構造を間近に見る機会があります。


    九份|金鉱の町から観光地に

    九份(ジョウフェン)は、台湾北東部の新北市瑞芳区にある山間の町です。19世紀末に周辺で金が発見されると、採掘に従事する労働者や商人が集まり、日本統治時代には台湾を代表する金鉱地帯として発展しました。山の斜面には住宅が密集し、鉱山で働く人々の生活を支える商店や飲食店が建てられます。現在の九份老街にあたる基山街(ジーシャンジエ)は、当時から買い物客でにぎわった商店街です。一方、山の斜面を縦方向に結ぶ豎崎路(シューチールー)には急な石段が続き、途中には茶芸館や住宅が並んでいます。平地の少ない土地に住宅や商店を建てたことが、入り組んだ路地や階段の多い町並みを生みました。

    九份の金鉱業は1950年代後半から衰え始め、1971年には採掘が終了しました。仕事を求めて町を離れる人が増え、人口が減少するなかで、山の斜面に建てられた古い住宅や細い路地は大きく改変されずに残されました。その後、九份が再び注目されたのは1989年のことです。台湾の映画監督、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)が手がけた映画『悲情城市』が公開され、撮影地となった九份周辺の町並みに関心が集まりました。映画は同年のベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、台湾国内でも山あいの古い町を訪れる観光客が増えていきます。1990年代以降は茶芸館や土産物店などが次々と開業し、かつての鉱山町は台湾を代表する観光地へと発展しました。九份で現在見られる赤い提灯や茶芸館の多い風景には、観光地となってから整えられた部分もあります。鉱山で働く人々が暮らした時代の住宅地と、観光客向けに発展した商店街が同じ町に広がっているのです。


    鹿港|清朝時代の港町

    台湾中部の彰化県にある鹿港(ルーガン)は、清朝時代に中国大陸との貿易で栄えた港町です。18世紀後半から19世紀前半にかけて台湾有数の商業都市となり、当時は「一府二鹿三艋舺」という言葉で主要な都市のひとつに数えられていました。「一府」は現在の台南、「二鹿」は鹿港、「三艋舺」は台北の萬華地区を指し、鹿港が台湾第二の商業都市と呼ばれるほど繁栄していたことを伝えています。港には中国大陸から陶磁器や布地、日用品などが運ばれ、商人たちは港に近い場所に店舗や倉庫を構えました。現在の鹿港老街にあたる瑤林街(ヤオリンジエ)や埔頭街(プートウジエ)では、かつて建物の裏側に水路があり、船から荷物を直接運び込める構造になっていました。港に近い商店街には赤レンガ造りの商家が並び、商人たちが暮らした住宅には木製の扉や窓、精巧な装飾が施されています。

    19世紀後半になると、鹿港の港では土砂の堆積が進み、大型船の利用が次第に難しくなりました。鉄道や新しい港湾施設の整備によって商業の中心地も移り、かつての繁栄は衰えていきます。日本統治時代には道路の拡張が行われ、中山路などでは古い建築が改修されましたが、細い路地が続く旧市街には清朝時代の商家が残されました。1986年には瑤林街や埔頭街などが台湾で初めて都市計画による古跡保存区に指定され、街区全体を対象とした保存が進められます。鹿港老街では、瑤林街12号にある「半辺井」も見ておきたい場所です。これは井戸の中央に壁を設け、半分を屋敷の内側、もう半分を道路側から利用できるようにしたものです。井戸を持たない近隣の住民も水を汲めるようにした仕組みで、商人の屋敷と地域の暮らしが密接に関係していたことを伝えています。また、鹿港には媽祖を祀る鹿港天后宮や、清朝時代に建てられた龍山寺などもあり、港町として栄えた時代の信仰や文化が今も見られます。


    台湾の古い街並みを訪ねる

    迪化街は台北市内にあるため、台北観光の途中に訪れることができます。台北MRTの北門駅から徒歩約10~15分で、迪化街の南側に到着します。商店が営業を始める午前10時ごろから昼過ぎにかけて訪れると、漢方薬店や乾物店などの昔ながらの商売の様子も見られます。九份は台北市内からバス965番で約1時間~1時間30分が目安です。昼間は基山街の商店を巡り、夕方になると豎崎路の階段沿いで提灯の明かりが灯る風景を見られます。九份老街の観光には2~3時間ほど確保するとよいでしょう。ただし、山の斜面にあるため階段や坂道が多く、夕方以降は台北方面に戻るバスの混雑も考慮して訪問時間を決めておきたいところです。

    鹿港は台中からの観光が便利で、台中駅から中鹿客運の9018番バスで約1時間~1時間20分が目安です。鹿港老街では瑤林街と埔頭街を歩き、半辺井や伝統的な商家を見学した後、鹿港天后宮などの寺院を訪れる行程がよいでしょう。旧市街の観光には2~3時間程度を確保したいところです。午前中から昼過ぎにかけて散策すれば、商店街で地元の菓子や伝統的な軽食も楽しめます。台湾の古い街を訪れる際には、観光客が集まる通りの周辺にも目を向けてみてください。迪化街では商家の奥に続く中庭、九份では鉱山の集落だった時代の階段や住宅、鹿港では港町の暮らしを伝える路地や井戸など、かつての生活を知る手がかりが残されています。台湾旅行で古い街並みを訪ねるなら、こうした細部にも注目したいものです。



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